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Vol.45 山口が生んだ女性文人 田上菊舎をたずねて
自らの身体で感受した美意識を、句にのせて旅を続ける。
質素な生活とはいえ、その時代に、菊舎がなぜ詠出の旅を重ねることができたのか。菊舎顕彰会の岡さんに伺ったところ、菊舎に「一字庵」の庵号を授けた俳句の師・朝暮園傘狂(さんきょう)が、最初の旅の出発にあたり菊舎に持たせた一枚物の口上書(紹介状)があったからだそうです。
内容は「日が暮れたなら、この尼に一晩の宿を世話して俳諧の話など聞かせてやって欲しい」といったもの。各地の門弟に宛てたこの紹介状を持って、菊舎は俳諧行脚の旅を始めました。もちろん、菊舎自身が、向学心と好奇心を併せもっていたからに他なりません。
菊舎は生涯を通して旅を続けました。諸国で関わった人は数えきれないほどだといいます。また俳諧だけでなく、和歌、漢詩、書道、絵画、茶道、弾琴などへ、探求心は広がっていったのでした。
一字庵11世の岡昌子さんは「菊舎の旅は放浪や漂泊ではなく、目的を持った学びの旅であり、風雅を極める創作の旅でもあったのだと思います」といわれました。
最初の大行脚の際、仙台から白河の関を越え、日光に滞在した時に詠んだ句。長府を出立して1年を過ぎ故郷の両親への思いが込められている。(功山寺 下関市長府川端)
菊舎が、今生の暇乞いに長府からふるさと田耕を訪ねた際に、秋風に吹かれる野花を見て幼い頃を懐かしみ詠んだ句。(田耕小学校校庭)
父母の供養のため自らの手により金屋町の徳応寺境内に建てられた。碑の下には菊舎が旅先で両親から貰った手紙を納めたため文塚と呼ばれている。
(徳応寺 下関市長府金屋町)